2022年1月19日、慶應義塾大学総合政策学部・太田深月さんとColorbathスタッフ・椎木睦美が対談をおこないました。
テーマは、「国際協力と主体性」。
ネパールとマラウイで、衛生環境の向上や雇用創出などのプロジェクトに取り組むColorbathですが、活動していく中では、「国際協力」というキーワードや、そのみられ方に違和感をいだくこともあります。
「どうすれば、日本にいる私たちと現地にいる人たちの強みや主体性を活かしていけるのだろう」という太田さんからの問いは、私たちも日々向き合い、取り組んできたものでした。
それぞれの専門性やこれまで歩んできた人生が交錯し、とても意味のある対談の時間になったと感じています。
今回の記事は、その対談を文字起こし、まとめたものです。
みなさんともぜひ、「問い」と「一歩踏みだす勇気」を共有したいなと思います。
前の記事はこちら
「絶望」と「頂点」のどちらもを味わったマラウイでの時間

2年アフリカに行くって、すごい決断だなと思うんですが。

でも、初めは長いとも思ってなかったんですよね。なんとかなるか、一人じゃないし、と。

2年だと、人との関わりも密なものになりそうですし、言語的なギャップ・文化的なギャップ、楽しいところも含めて色々感じられたんじゃないかなと思います。どんな経験でしたか?

先ほどもあったように、私は人と人の関わりへの探究心・つながりが大好きで生きてきた人間でした。その観点でいうと、2年間で絶望と頂点の両方を味わいましたね。
赴任して半年くらいの、環境にも慣れてきたときに空き巣に入られて、大きなショックを受けました。早く現地の人と仲良くなりたい、とコミュニケーションをとっていたのに、やっぱり外国人というふうにみられていたんだ…と。と同時に、自分自身も彼らのことを「助ける対象」としてみていたのかなとも気付かされましたね。
任地を南部から北部に変えてからは、現地の人と同じ生活をしたいと考えて、電気も水道もないところで暮らしました。そうしたら、日本人としてみられる、という感覚がなくなったんです。
私が水を運ぶのもうまく運べない。そうしたら、自然と手伝ってくれるんですね。
鳥を捌いたら、近所の人同士として一緒に食べる。
そういう人としての温かみに触れて、日本人としてではなくて、「睦美」としての自分と一緒にいたいと思ってもらえたときは、とても嬉しかったです。
2年間のことを、一言では語れないのですが、この経験が元になって、Colorbathでいろいろな事業をやる中でも、「一人の人間」として向き合うことを大切にしているのだと思います。
赴任して半年くらいの、環境にも慣れてきたときに空き巣に入られて、大きなショックを受けました。早く現地の人と仲良くなりたい、とコミュニケーションをとっていたのに、やっぱり外国人というふうにみられていたんだ…と。と同時に、自分自身も彼らのことを「助ける対象」としてみていたのかなとも気付かされましたね。
任地を南部から北部に変えてからは、現地の人と同じ生活をしたいと考えて、電気も水道もないところで暮らしました。そうしたら、日本人としてみられる、という感覚がなくなったんです。
私が水を運ぶのもうまく運べない。そうしたら、自然と手伝ってくれるんですね。
鳥を捌いたら、近所の人同士として一緒に食べる。
そういう人としての温かみに触れて、日本人としてではなくて、「睦美」としての自分と一緒にいたいと思ってもらえたときは、とても嬉しかったです。
2年間のことを、一言では語れないのですが、この経験が元になって、Colorbathでいろいろな事業をやる中でも、「一人の人間」として向き合うことを大切にしているのだと思います。


やっぱり、「助けにきました」「調査しにきました」という人と人として接するって、ハードルが高いですよね。自分の経験を振り返ってみても、「無意識に支援の対象としてみていた」ということを発見できる瞬間は、とても大事だなと思いました。一人ではなかなか、気づけませんよね。

シンプルに、誰とでも友達になって、誰とでも家族になるっていうのでいいと思います。
出会った人と、誰とでも友達になれる。そんな人でいたら人生が楽しくなるし、相手がネパールの人だったり、マラウイの人だったり、それだけだよねって思えるようになります。
Colorbathは、私と(代表の)吉川さんで、それぞれの違いを活かしあいながらいろんなプロジェクトをつくったり、動かしたりしているのですが、「すぐ友達になっちゃう」というところは共通していますね。
出会った人と、誰とでも友達になれる。そんな人でいたら人生が楽しくなるし、相手がネパールの人だったり、マラウイの人だったり、それだけだよねって思えるようになります。
Colorbathは、私と(代表の)吉川さんで、それぞれの違いを活かしあいながらいろんなプロジェクトをつくったり、動かしたりしているのですが、「すぐ友達になっちゃう」というところは共通していますね。

教育の中での「セカイ」

いまの学生世代と関わる機会も多いと思うのですが、「助けなきゃいけない」という視点はまだあるな、と感じますか?

教育の中で世界について学ぶときに、「課題」から入ってしまう面はあるんじゃないかなと思います。
何かを学んで獲得しなくてはいけないという気持ちが強いから、対象となる物事を、0よりマイナスのところにあるものとして見せないといけない、というのは感じますね。
それが、途上国に対するものの見え方を、「支援しなきゃいけない」というところに固定化させてしまっているんじゃないかなと思います。
実際には、日本も戦後はODAで支援を受けていたし、いまは外国から日本に来て働いている人の力で、経済を支えようとしている。一方的な支援という考え方は、通用しなくなっています。
日本国内のことだけではなくて、世界と共にどう生きるかという視点は、島国という地理的事情もあってなかなか持ちづらいのかもしれませんね。
たとえばアフリカだと、全部陸続きでつながっているので、いろんな人種が混ざり合っているし、いろんな国と支え合いながら生きていく当たり前が根づいているとも感じます。
何かを学んで獲得しなくてはいけないという気持ちが強いから、対象となる物事を、0よりマイナスのところにあるものとして見せないといけない、というのは感じますね。
それが、途上国に対するものの見え方を、「支援しなきゃいけない」というところに固定化させてしまっているんじゃないかなと思います。
実際には、日本も戦後はODAで支援を受けていたし、いまは外国から日本に来て働いている人の力で、経済を支えようとしている。一方的な支援という考え方は、通用しなくなっています。
日本国内のことだけではなくて、世界と共にどう生きるかという視点は、島国という地理的事情もあってなかなか持ちづらいのかもしれませんね。
たとえばアフリカだと、全部陸続きでつながっているので、いろんな人種が混ざり合っているし、いろんな国と支え合いながら生きていく当たり前が根づいているとも感じます。
